お侍様 小劇場 extra

    “花曇り” 〜寵猫抄

        *途中に露骨な流血表現があります。
         そのような痛い描写は苦手な方は、ご遠慮ください。


 遠いどこかで生じたそれが、ひゅうぅんと低く唸りつつ近づいて来ては、間近にある木々の梢を揺らして騒がす。そんな風籟の声が、今朝方から しきりと立っているみたいだなぁと、仄かに明るいが、それでも空を覆う雲はなかなか退きそうにない頭上を見上げ、はあと吐息をついた七郎次で。どうにも落ち着かないお天気なものだから、昨日一昨日のお買い物へ、仔猫の久蔵を連れてけないままになっており。まま、まだ小さい和子だから、この屋敷の中だけでも結構な遊び場にはなっているのだが、

 『みゃあう、なあぁう。』

 やはりお留守番はつまらないか、連れてけないからと言い聞かせる玄関口にて、お口を大きく開いてのみゃうにゃあと鳴いてはさんざん愚図るし。大急ぎで戻る七郎次をずっとそこで待っているものか、出掛けた時とほぼ同じ場所にいる幼子を、帰宅しての一番最初に見るのはなかなかに辛い。せめて勘兵衛がいるならば、手が空いておれば“遊んでやって下さいますか”と頼めるし。たとい仕事中であれ、その間近のお廊下などへまで連れてけば、気配に安心出来るのか、こっちへはバイバイと手を振る現金さだったりもするのだが。そんな御主がまた、先週末からの数日ほど、ご近所の街にあるホテルにて、某雑誌社主催の企画会議に参加中。何でもじわじわと人気が出て来たとあるアニメ作品の、ゲームシリーズ化にあたって立ち上がった代物で。ネットと掲載誌とでキャンペーンを打ちつつ、秋には映画化も控えているとかいう大きな企画のその原作が、またしても“島谷せんせい”だったため。そこはやはり、頭数として居てもらわねばと呼ばれたそうで。

 『どうせ もはや手を離れた代物になっておるのだがな。』

 原作者の意図から離れた、全くの別物へされてしまうというよな、よくある“困った事態”にまでは、幸いなことには陥っていない。ただ、独創性のある設定を生み出し持ち出したのは確かに原作者の勘兵衛だが、その後の様々なシリーズ化へは、制作スタッフの皆様の若い発想が山ほど生かされてもいるため。勘兵衛本人としては、もはや自分は関わらずともと思っていたらしく。わざわざ呼んでくれずともと、どこか意外そうにしておいでだったほど。なのでということか、昨日までの3日ほどは、晩になればネットでのライブチャットという形で連絡をくれたので、久蔵をあやすような呼びかけもしてもらえた余裕もあった。何なら近所まで出て来れぬかと、向こう様も退屈そうにしてらしたのだが。最終日にあたる今日は、メディアへの発表もあるとかでどうしても抜けられないらしく。

 “でもまあ、それが済んだらお戻りだ。”

 お顔やお声が観れたとて聞けたとて、本物の存在感には到底かなわない。ましてやあれほどの男ぶりと重厚感をまとったお人。大好きな家族だ、久蔵も感じる安堵の質や深さが違うだろうし、

 「……。」

 お留守番を強いられている身なのは、自分も同じだと。こたびは何故だか、普段以上に感じられてならなかった七郎次であり。すぐのご近所にいるというのに逢うこと叶わぬ理不尽さからか、それとも曇天が続いたお日和と、妙に愚図ってた久蔵のご機嫌へ、大人げなくも引っ張られてしまったせいなのか。すぐのお隣りにはない気配や温みが、いつも以上に恋しくてならぬ。そんな素直な感慨を大人なはずの七郎次へも招いたほどに、やたら甘えん坊な仔猫様も、今は朝餉を終えてのお昼寝中。コタツの傍らで上掛け布団を枕にし、くうくうとうたた寝の真っ最中であり。今日もあんまりいいお天気とは言えないが、明日にはお戻りの勘兵衛へ、何か御馳走も作りたいし、

 “雨さえ降らなきゃ大丈夫かな?”

 食器を洗う傍らに、キッチンの窓から再び見上げ、そこからだと東にあたろう空色を確認。傘を差さないで済むのならばと、小さな皇子が起き出し次第、出掛けるようにという方向へ、その気持ちを切り替え掛かっておれば。

  ―― ふっ、と

 誰かの気配を背後に感じた。これでも少しは武道をかじった身であり、しかも住み慣れた家の中。違和感が立てば、何とはなくでもハッと気がつくし、その感度も多少は高いはずが。自分と仔猫以外、誰もいないはずなのにというモードになっていたにしちゃあ、随分とおろそかになっていたらしきこと忍ばせるほど、相手の手がこちらへ触れるまでという間際の間際に至るまで、てんで気づけなかった七郎次であり。

 「 、…っ!」

 あまりの不意打ちに、ざわりとなんてもんじゃない、背条と言わず うなじと言わずの全身が総毛立ったほど そりゃあ驚いたし。それへの警戒心も遅ればせながらの勢いよく立ち上がりもしたが、

 「………あ。」

 流しの前というその場で、手にしていたグラスを取り落としかけたほどの驚きから、慌てて肩越しに振り返った彼の視野へと収まったのが、

 「……驚かさないで下さいまし。」

 鋼色した豊かな蓬髪を、かっちりとした広い肩の向こうへまでと垂らした、随分と上背のある壮年殿。選りにも選って、この館の主人でもある勘兵衛の姿だったものだから、七郎次の中で一気に冴えての立ち上げられていた警戒やら何や、非常事態へ向けての攻撃的な感度が、やはり一気に落ちてのするすると萎えたのは言うまでもない。日頃普段着としてはいているスラックスに、木綿のラフなシャツという砕けた姿でいるからには、もっと早くに帰宅していた身であるらしく。外出着からの着替えをこそりと済ませてのそれから、おもむろに此処へと足を運んだ彼だったのだろうと思われて。突然 がばっと振り向いて来た七郎次だったのへは、勘兵衛の側でもギョッとしたらしく。しかもそのまま、流し台の縁にすがるようにして くったり萎えた反応へ、彼の側でも おおと目許をしばたたかせたのが何だか申し訳なく思えてしまったほどで。不意なこととて驚きはしたが、何だあなたでしたかと安堵もあっての笑って済むかと思ったのなら、大仰に驚いたは こちらも大人げがなかったということになるのだろう。とはいえ、

 「気配を消して近づいたなんて、驚かそうとしたのでしょうに。」

 年甲斐もなく茶目っ気を見せたのはそっちが先ですよと、こっちばかりを責めぬようにと言いたげに、プイと拗ねての姿勢を戻す。安心した途端に ずるずるとへたり込みかけた、そんな自分の態が気恥ずかしかったからであり。それに、

 “勘兵衛様だと、気づけなかっただなんて。”

 相手が触れて来てのやっと、誰かいたのだと気づいた不甲斐なさは結構手痛い。しかもそれが、最もよく知る相手だったなんて。故意にとの消気を構えたそれが、あまりに見事で気づけなんだと。それはそれで相手の技の妙が優れていた結果だ、何も残念がることはないはずが。どういうものだか、微妙に腹に据えかねる七郎次だったのは、

 “思い入れが薄いと…何とも思ってないみたいじゃないか。///////”

 そんなことは決してない。むしろ…お部屋の匂いに自然と口許がほころぶし、お気に入りにしておいでの上着の温みに、本人の体温じゃあないと判っていつつも、じんわりと胸の底が温められるほど、いつだって何かしらささやかな事象の端々に勘兵衛を感じては、恋愛にはまだまだ初心な少女の如く、ドキドキする身であるはずなのに。だのに、こうまで気づけなかった自分だった無様さが悔しくてたまらず、そんな心情の裏返し、ちょっぴり拗ねたくなっただけだったのだが。

  ―― え?////////

 それこそ大人げなくも、プイと拗ねてのそっぽを向いた連れ合いなのへ。普段の勘兵衛だったなら…取り付く島がないと思うのか、その場へ立ち尽くしてどうしたものかと後ろ首を掻いたり、手持ち無沙汰になっての末に、すごすごと立ち去るかなさるのに。今度こそはその気配が背中へと伝わって来る。

 “あ…。//////”

 すぐ間近へまで、ゆったりと歩を進めて来た彼であり。広い胸元がこちらの背中へと触れたことで、それはやすやすとその上背の陰へ包み込まれてしまったのが判る。背丈も肩幅も勘兵衛の方が上なまま、彼が年上なのだからしょうがないと思えた子供時代をとうに過ぎても、とうとう追いつけなかった七郎次であり。腕をこちらに伸ばして来たことで、尚のこと開かれた懐ろへ、すっぽりと収まってしまう自分であるのが、勿論のこと勘兵衛へは内緒だが…実は嬉しく思えて擽ったい。

 「えと…。/////」

 手にしていた洗い物を降ろすでなく、だが、何をふざけておいでかと もがくでなく。
それもまた見慣れた手が、自分の胸元へ回されて。片方は鎖骨の下あたり、もう片方は腰へと回されたのを見下ろしつつ、きゅうと引き寄せられた優しい束縛に、総身がじわじわと甘く温まるのを自覚する。

 「…如何したのだ?」

 手が止まっての立ち尽くしていることへだろう、不審そうな訊きようをする勘兵衛だったが、その声音には 判っていてという悪戯っぽい甘さが滲んでもおり。耳元のすぐ間近から訊いたのも、恐らくはこちらを、声で愛でよう翻弄しようという手管の一つ、睦みの手の中へ誘
(いざな)う、甘やかな構いようのうちに違いなく。カッコをつけての気障にというのじゃあない、勘兵衛にしてみりゃ遊び心での一種のお悪戯(おいた)。もしくは…うら若き情人が照れる様子が可愛いと、これもまた愛撫愛咬の1つと数えてのいじりようか。悪ふざけへぎりぎりで一線を画した種の、甘い声での囁きは、

 「う……。///////」

 口惜しいことだが確かに効果も覿面で。その身を直接じんと痺れさすには十分な、男の色香を十分染ませた、低い響きのお声の余韻へと。早くも脈が落ち着きをなくし始めており。頬やら指先やらが熱を持つのへ狼狽(うろた)えながらも、どんな受け答えをすればいいやらと、言葉に詰まってしまう七郎次へと、

 「そのようなものは後でもよかろう。」

 家事を軽んじているというのじゃなく、早ようこっちをお向きと言いたい彼なのか。腕の輪 縮めて抱き寄せる気配と同時、くすりと微笑ったその吐息がまたしても耳朶をくすぐり、

 「…っ。」

 ふるると身をすくめた肩の上、うなじで束ねていた髪をいつの間にやら解かれていて。それへと頬をつけている、勘兵衛の肌の温みがこちらへも嬉しい。ほんの数日、しかもさほどの距離があった別離じゃあないけれど。それでも離れ離れだったのは寂しかったと、言外に示してくれているようで、

 こちらの“寂しい”までも、自然な形で引き出してくれて。

 思えば…片意地張らなくていいんだと。はたまた、勘違いをするなと突き放されるかも知れないこと恐れずに、あなたが好きだと素直に思っていいんだと。それを自分へと諭してくれたのも、七郎次がその“想い”を向けていた当の勘兵衛だった。

 “何だか…何時だって手のひらの上だよな。”

 見栄を張っても、逆に気遣ってみても。そんなの他愛ないとばかり、もっと広い許容のうちへと取り込んでくれる、頼もしくも優しいお人。好きになってよかったと、こんなささやかなやり取りの中へも至福を感じて寛いでおれば、

  髪へと触れていた頬がふっと離れて。

 いかがしましたかと、それでも甘えの滲んだお顔で、首だけを回しての、肩越しに振り返ろうとした七郎次の その首へ。

 「………え?」

 最初は、それもまた愛おしみのうちだと、愛咬のうち、軽い構いつけかとも思ったのだが。唇ではない堅い感触、間違いのない歯列が当たり、しかも…そのまま食い込んでゆくのへと、


   ――― えっ?


 例えれば、久し振りに咬まれた仔猫の牙や爪が、思っていたより深く刺さっての痛かったような…なんて比じゃあない。何てことないという感触から、一体何が起きているのかという不安と恐怖を導くのへは、さして間もかからなくって。それほどに激しい痛みとそれから、自分の身を掴んで束縛している腕の力にも、混乱の中へと放り込まれつつ、ぎょっとしていた七郎次であり。

 「な、で…?」

 二の腕をしっかと掴んで離さぬ、この頑丈そうな重たげな手は、間違いなく勘兵衛の手だ。だが、ならばその持ち主は何をしている? ぎりぎりと歯の先が力任せに押し込まれていた首条に、とうとうぶつりと肌が裂かれた感触がし。そのあまりの生々しさから、激痛よりも先んじて、恐怖から ああっと大きな声が出た。自分の身へ何が起きているのかが判らない。ほんの寸前までのあの甘やかで幸せだった想いは、どこへ掻き消されてしまったのか。立っていられず、さりとて、途轍もない力が首へと掛かっていて自分を離さず。このまま頽れ落ちたら自分の重みでもっと傷が開くのではないかと思うとただただゾッとしたその刹那、

 《 離さぬか。》

 誰からのものか、低められた声がした。彼らが立つ位置からはもっとずっと後方からのそれであり、そんな声は背後の存在へも届いたか、ぎりぎりと加えられていた歯による咬みつきが一瞬緩む。だが、だからと言って痛みも引いた訳じゃあなく。恐ろしい存在との密着が多少は離れたことも、それで生じた肌への寒さから逆に、ぶるりと総身が震えたほど。そして、そんなこちらの反応に引かれたか、再び牙が喰い入ろうと仕掛けた気配がしたのだが、


  《 ……っ!》


 声がした訳じゃない。ただ、強い感情をのせた気合いのようなものが、キッチンの空気を震わせ、こちらへと躍りかかったのが判る。どんという強い衝撃が、七郎次の背中へも届いたが。それにより背後の“何か”は彼への束縛を解いたため、自分の身がやっと自由になったのを自覚して。

 “…あれ?”

 すぐの手前にある流しの縁へ、掴まりかけた手が動かない。真っ直ぐすとんと足元へ、その身が落ちかかり、首の傷の痛さに くっと息が詰まった。そこが一番に痛かったため気づいていなかった七郎次だったが、大ぶりな手で掴まれていた二の腕へも、指先から鋭い爪が飛び出しての突き刺さっており。その跡へ少なくはない血が染み出しての赤々と、何とも痛々しいまでの惨状になっている。そんな彼の身を、

  ―― ふわりと

 難無く受け止めた腕がある。家人は自分以外 誰もいないはずなのにと、記憶をまさぐるより先、恐らくは先程の展開を思い起こしてだろう、びくりと震えた七郎次だったが、

 《 もう奴はいない。》

 抑揚の少ない声がして、先程まで自分を捕まえていた手とはまるきり異なる造作の、小さくて白い手が見えた。小さいと言っても子供のそれじゃあなく、指先まできれいに整って形のいい、何をさせても器用そうな手だ。ただ、その手へは長いものが握られており。何だろこれと、徐々に遠のく意識下で記憶をまさぐった七郎次が、ぎりぎり最後に導いた答えは、

 “…………日本刀?”

 だとすれば、さっきと変わらぬ危機じゃああるまいかと、現実にわずかに残る意識が思わないでもなかったが。倒れ込みかかったところを受け止めてくれた、もう片やの腕は…何ともやさしく暖かだったので。それと……ふわんと立って鼻先へ届いた匂いが、久蔵に使っているシャンプーの匂いにも似ていたので。どうしてだろうか、それがどういう理屈でそんな感情を招いたものか、

  ――― ああ大丈夫なんだ、と

 とっても大きな安堵を招き、そのまますうっと眠りについた、七郎次だったりしたのであった。





       ◇◇◇



 その邪妖はさして強力な手合いじゃあなかった。だからこそ気づくのが遅れた…とは、出来の悪いにも程があろう言い訳だったので、あえて言葉には せなんだが。

 《 ……。》

 館の中、不意に頭をもたげた ただならぬ気配があって。それに弾かれたような格好で、柔らかな微睡みから がばっと跳ね起きた久蔵が、キッチンまでを飛翔する間に封印も解き、駆けつけたそのまま…視野に飛び込んで来た惨状へ慄いたのは言うまでもなく。深紅の長衣ひるがえしての問答無用と、大上段から斬りかかれば。その頃にはもう、自身の身をそれとやつしていた偽りの姿もほとんどほどけての、醜い餓鬼でしかなかった“妖かし”の殻躯は、虚空から招いた精霊刀からの一閃で、それはあっさりと切り伏せられたのだけれど。咒を唱えての渾身の力を込めずとも、あっと言う間に蒸散していったほどの手合いながら、人へと直に食らいつくほどの存在だったのだから。有無をも言わさず封印滅殺を選んだ対処に誤りはなく。むしろ、そんな輩を見逃したとはとの自己嫌悪からだろう、久蔵の表情は苦々しくも歪んでしまう。餌食になりかけていた家人の若いのを、腕の中へと大事に大事に受け止めて。ゆっくり屈んだ自分の膝の上、そおとその身を載せ置きながら傷をあらため、肌をも裂いたほど深い傷へと。その身へまといし単
(ひとえ)の七彩、透かす袖から延ばした白い手をかざしてやれば。そこから ぽうと灯ったは、あたたかな真珠色の光とやわらかな熱で。彼もまた実体の無い身、しかも相手を抹消という形で成敗するのが務めという存在ではあれ、傷ついた生身を修復するための力も多少は持ち合わせている大妖狩り殿。意識を無くしても痛みはなかなか引かぬのか、眉を寄せたままな七郎次を見下ろし、白い御面相を常以上の仏頂面、沈んだ表情にて塗り潰していた久蔵だったものの、

 《 …っ。》

 そんな自身の手へと重なった別な手へ、細い肩がふるりと震える。顔を上げるまでもなく、その手の主はすぐ知れて。いち早く駆けつけてくれた兵庫が、そちらも元の姿へ戻った上で、至急の手当てには一人分じゃあ足りなかろうと、自分の生気もその手からそそいでくれている。白い横顔凍らせたまま、一向に何も語らぬ久蔵だったが、

 《 よほどに食い意地が張っておったのだろうな。》

 同じ空間にお主ほどの手練れがおるというに。意に介さなかったかそれとも、構っておれぬほどもの空腹だったか…と。何奴が何をしでかしたか、見ていたかのように的確に言い当てる同輩殿であり。ああいう手合いは、おおむね大きな戦の最中に生まれると続け、

 《 だが、存在を保つための派手な振る舞いから却って目立ち、
   あっと言う間に狩られての、
   打ち減らされるのが常套
(セオリー)なはずだが。》

 こんなところでお目にかかれようとはと、呆れたように付け足した彼の声が、静かな屋内へと溶け込んでの幾合か。治癒は七郎次の身とそれから、彼が身につけていたものへも働いているようで。無残だった傷口が塞がり、流れ出していた血ごときれいに薄れてゆくのにつれて。白いTシャツとそれへ重ねていた少しほど目の粗いグレーのニットへも滲んでいた鮮血もまた、少しずつ掠れてゆくのが判る。それとの同時進行で、七郎次の表情も、また、苦痛へと歪んでいたものが今は随分と和らいでおり。だが、時折 遣る瀬ない溜息のような息をつくのは、恐ろしい目に遭ったという事実を、意識の上から振り切りきれないからだろう。まま、それは記憶の操作でどうとでもと思っていた兵庫の耳へ、

 《 俺のせいだろうか。》

 ぽつりとした呟きが届いた。空耳かと思ったほど、抑揚も浅ければ声自体も小さかったが、

 《 ?》
 《 ……。》

 すぐの傍らで俯いている横顔の主しか、該当者はいなかろうとの判断のもと、

 《 こういう輩をお前の気配が招いているのかも知れぬと言いたいか?》
 《 ………。》

 応じはなかったが、かぶりを振らぬは肯定の意でもあろう。だとしたら…この陰鬱な態度は、少なからぬ責任を感じているということだろうかと。こやつが微かにでも感情や何や見せるようになっただなんてという方向での、驚異と希少感を覚えつつ、

 《 それはないな。》
 《 …?》

 兵庫はいかにも呆気なく、否との言いようを返しており。え?とキョトンとして見せたお顔へ、今度は…今までこやつの無頓着にどれほど手を焼かされてきたかを思い出したのか。別段 慰めるつもりもないと、意味がないほど大きく胸を張りつつも、

 《 お前から聞いた話をつなげると、
  この者とあの髭面とという二人の人の子と、お前との因縁とやらは、
  何かしら大きな争いの渦中にて、
  世を乱す元凶たる“大妖”を仕留めようとしたお前を庇おうとしてか、
  若しくはそんな相棒を庇おうとして、片やが命落としてしまうとのことだったが。》

  ―― それは…何かしらの戦さに、
     同じ陣営の者として居合わせていての話だったそうではないか。

 そこで、だからどうしたを続けなかった兵庫だったのは、

 《 ……。》

 何度か瞬いた久蔵だったのが、自分の洞察でその先にある事実へと気づいたようだったから。

 《 この時代とて、戦さに乱れている土地はいくらだってある。
  この安寧の日之本の中にだって、
  大義名分の規模こそ違えど、
  命や矜持を懸けてとの壮絶な戦いようをしている者はいるだろうが。》

 そも、そっちの因縁がらみで襲った者からは、久蔵が今世では出会いののっけに庇いおおせているのだし、いいやまだまだとの影響が出ているそれであれば、こんな小物が襲う程度で済みはすまい。よって、そっちの因縁から派生したものが、それでもと招かれていての生じた奇禍ではない、ということになる。

 《 今世での一番最初に仕留めた蟲妖にしても、
   よその地から はぐれた奴輩だっただろうが。》
 《 …。(頷)》

 もうすっかりと癒えたからだろう、規則正しい呼吸を刻み、ただ眠っているだけとなった七郎次であり。そんな彼の細おもてを…日頃の仔猫の自分がされているように、愛でるようにいたわるようにと、久蔵が不器用そうに撫でてやれば。兵庫の方はさすがに手を放しての立ち上がっており、

  ―― こやつやあの主人が、
     今時の気概希薄な現状にあって、
     飛び抜けた“気”の持ち主だということならば

 それでと妖かしに狙われるというのなら、話はそうそう難しくはないとにんまり微笑った兵庫殿。小首を傾げる久蔵へと向けて、

 《 要は油断なく見守ればいいだけの話。》

 いかにも自信満々、再び胸を張って言い切った彼であり。何ぁんだ、じゃあいつも通りで居りゃあいいんじゃんかと、いやそうまで砕けた感慨を持った久蔵殿だったかどうかは、何分にも表情の堅い御仁ゆえ、計り知れなかったのではありますが。


  《 それにしても…あの壮年へはどれほど心許しておるのだ、こやつ。》
  《 こやつではない。》
  《 判った判った、そんなしてしゃにむに抱えたらすぐにも起きるぞ。》
  《 …っ。》
  《 さて、どうやって辻褄を合わせようかの。》


 あれほどに耳に触った風の唸りも、いつの間にやら遠のいており。キッチンへと降りそそぐのは、数日ぶりの明るい陽射し。何だか変梃子だったこの春にかこつけた、善からぬ気配が1つほど、確実に退治された一幕でありました。






  〜Fine〜  2010.04.27.


  *さて、どうやって記憶の辻褄を合わせるかなと、
   見回した兵庫さんの目に留まったのが、
   例の“黒いの”だったら笑えます♪
   何とか退治はしたけれど、
   精も根も尽き果てての倒れてしまったところと、
   怖かった体験を擦り変えておれば、
   本物さんが堂々の帰宅。
   よっし、玄関まで出迎えに行け、こら待て仔猫へ戻らんかいと、
   そんなドタバタがあったら可笑しいです。
(笑)

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